野村川湯YH 解題「月刊川湯」 | 野村川湯YH 野村川湯ユースホステル

解題「月刊川湯」

連載 月刊川湯

第1回
赤裸々で、核心的な「男におくる言葉」
(11号より)

 

ずいぶん前に、わたしと同じく川湯に連泊していた女性から、突然、30冊余りの「月刊川湯」の実物を託されました。あまり関心もなく、忙しかったこともあって、そのまま読むこともなく長い間、書棚の下段の、端の方にただ差し込んだままでした。年月を経て、いつの間にか紙は焼けて変色し、縁はぼろぼろになっていました。

1979(昭和54)年10月から、1983(58)年6月までの間、「月刊川湯」と名付けられ、途中から時々「川湯新聞」などとも書かれ、通巻で29号まで発刊された超ミニコミ誌です。

野村川湯YHに泊まったことのある仲間の、有志たちによって発刊された冊子で、装丁は手書きをコピーし、刷りっぱなし。折るだけで製本なし、時々、ホチキス綴じ、など。

創刊号はたった2ページのみではじまり、2号16ページ、3号28ページ、ついに4号に至っては36ページの大冊となり、それをピークとして、その後は、増減を繰り返しながら、ふらふらと4年に渡って、不定期な刊行を続けていました。

発行部数は、奥付など、その号の制作担当者によって書かれた後記を読んで推察すると、多くても80部から85部ほどのようです。もちろん、発刊を続けるには相応な情熱が必要だと思われるのですが、苦労して作るわりには、その影響力ときたら、極少部数でもあり、蟻が木の葉の切れ端を運ぶくらいな伝達力でしょうか。

 

では当時、なぜ「月刊川湯」が、それなりの情熱やエナジーを傾け、時間を注ぎ込んで作られていたのでしょうか。

きっと、川湯に行けないもどかしさや寂しさ、懐かしさ、焦り、また仲間たちの動静を知りたいという欲求、さらにいえば、皆で集まっては、夜通し遊びながらこれを作る楽しさ、みたいなものもあったのでしょう。それともうひとつは、移り変わりつつあった野村川湯ユースに、なにか意見や主張がしたかったのかも知れないな、とも思えるのです。

 

そんなことを感じながら、今、パラパラとバックナンバーを見返して拾い読むと、なんとたくさんの人々と、時間と、熱意がここに凝集しているのが、じんわりと、でも確かに伝わって来て、なんだかとても暖かくて、面白いのです。

 

そこで当初は、この「月刊川湯」を順に、単純にデータ化してそのままを採録し、せいぜいの、わたしのついでの作業としては、すべての記事と筆者を洗い出して、のんびりと総目次でも作ってみようかな、と、呑気に思っていました。

それで、そんな軽い気分で全体を通して読みはじめてみたら、……これが実に、具合が悪いのです。

 

およそ40年ほど前に、遊び半分冗談半分に作られていただろうこの冊子に書かれていることはといえば、今の時代でいう人格攻撃みたいな、ヘイト、各種のハラスメント、そしてフェイクだらけで、そのままを再録したら、社会問題化し炎上しそうなのです。そのために、残念ながらすべてをそのまま掲載することは、キッパリと諦めました。

それにしても、当時、適当なことを書かれ、これらの記事を読んだ仲間のなかには、深く傷ついた人もいたかも知れません。仮に、書いた側には、底意地の悪いような、悪意はなかったとしても……、です。

 

そんなふうな「月刊」川湯」のよさと、面白さ、それと危うさが、象徴的にとてもよく現れているのが、北海道在住のほぼ女だけで作られたという、11号かも知れません。(ゆ)

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まず、P19「編集後記」から読んでみます。わたしは、いつも後ろから責めます。

早速、チャックが「まっかっか」と書いています。なにが? わたしにはとても書けません。続いてよしみも、この集まりのドタバタ振りとスカトロ趣味が、ちらっと窺えたりして。勤務先の雷電の旅館より駆けつけたらしい毒は、元気そうで、でも、やや傷心みたいですね。なおベエも面白く、健在です。

キラキラと、ひとり瞳が輝いているような気持ちを記すおぐすは孤高として、当時も、今も、いつも視線は高く、未来を見つめてはいます。熱は、あるんですね。それとフォードは、男ひとり奮闘し、こうして健在だったんですねえ。

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さて、みゆきちゃんの後記は、その背景にあるものは、P18に「聞いてもらいたいこと」として、本人が書き残していますので、併せて読むとよく分かります。内容があって、なかなか読ませます。

ついでにいうと、P18の「しのぶの勉強講座」に、わたしは感心しながらも赤面しちゃいました。

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さて、P17には「男におくる言葉」があります。

最初、ああ、埋め草的な寄せ書きかい、と思ったのですが、ところが、じりじりした焼け焦げるような女心と、いじらしいほどの感情が、赤裸々に書かれていて、核心を突いている、と思いを改めました。驚くのは、書き手の皆さんたちは20歳前後の妙齢な女たちだということ。わたしも女として、何度も、うん、うん、と頷いて読みました。

とくにキツい一撃だわ、と思ったのは、「東京でくらすといったのに」とか、「ガンは男」「いーきになるなよ」「お願い優柔不断はよして」「ハッキリすれ!」「人生の苦しみは男……」など。結句のように「女遊びする男はゆるさんゾオー」ともあり、きっと読んで凍りつく殿方もさぞ多かろう。

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最後に、P13の「陰口コーナー」を紹介したいと思います。

第1回として「テツヤの巻」としてあるのに、これで終わり、ともあり、直接関係のないわたしとしても、これで終わってよかったのよ、と、ひとり胸を撫で下ろしながら読みました。

この記事は、さすがに具合が悪いと思い、念のために、テツヤには事前に連絡を取り、再掲載をなんとか承諾してもらっています。

それにしても、ここに書かれていることは、仮に虚実入り乱れていたとしても、なんて男なの、人非人とか、危険人物だわね、とか、いいたくもなります。テツヤはもちろんですが、これを主導して情報提供したと思われるランサーや長坂、ホーセーらも、ちょっと酷いのでは……。そしてこういう読み物が、この冊子のひとつの特徴だともいえるのです。

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コメント

  1. miyuki より:

    長坂君、温かい言葉をどうもありがとう。
    泣けてきました。
    逆に感謝する事がいっぱいです。

    昔、山の話をしてくれた事があって‥(覚えてないでしょ)足元から霧が立ち登ってくる話です。
    谷川岳?だったかなぁ。

    山登りのきっかけを作ってくれたのは長坂君です。
    今は異国の地ミャンマーのお話で楽しませてくれてるし、、。

    今日は、ほど良いお天気で、勢い良く生えすぎた雑草を抜いて疲れたけど
    元気になったよー。
    ありがとうございました。

  2. 工藤みゆき より:

    おばけへ

    思い起こしてみました。
    たぶん父は、何やら集まってやってる私の様子を見て「愛情のないような仕事をするなら、それは良くない。止めろ!」という助言のような意味合いで釘を刺したのだと思います。
    本人には、もう確認はできません。
    ちなみに父は、新聞を読んでいなかったはずです。いらぬ心配です。

    そんなに信用されていなかったと思うと情けないですが‥。

    こう振り返ってみると、家庭内の事を若くておっちょこちょいの私は編集後記に愚痴ってしまったように今なら見えます。甘ったれでした。

    あれから、40年。

    ☆これからの、連載楽しみにしています。

  3. obake より:

    川湯新聞懐かしく読ませてもらいました。
    みゆきちゃんのページでお父さんから「愛情のない仕事は、するな」
    とありましたが、どういう意味だったのでしようか?
    新聞作りは、愛情なくしては、できなかったと思うのですが、、、
    内容の事だったのかな?
    みゆきちゃん 覚えていたら教えて!

    皆さんの投稿とても楽しく読ませていただきました。
    投稿してくれた友の 長坂 下関 キリンご苦労様でした。
    編集のテツヤさんも お疲れ様!
    また、次回楽しみにしています。

    • ながさか より:

      みゆきちゃんご両親、ご祖母宅には、昔とてもお世話になりました。
      礼儀しらすで薄汚い僕たちを、いつも温かく迎えてくれて。
      大人になってわかるけど、それはとても懐の深い、大きな事だと思います。
      そんなのが出入りしてるのに、お父さんは笑顔で接してくれました。
      みゆきちゃんの事をとても心配していたのでしょうね。
      今は感謝の気持ちでいっぱいです。
      ありがとうございました。

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