会うために〈中〉
|約束の場所
……えんゃー、どっこぃ、えんやこーら、どっこいしょ。
駕籠をかつぐネズミとオバケのリズム感ある掛け声が、人通りのない天間林村の村内に、響きはじめ、だんだん近づいて来る。陸奥の国とはいっても、真夏の、昼少し前の強い陽射しにカッカとさらされて蒸し暑く、汗でパンツが尻に張りつき、なんとも不快だった。
駕籠の帷(とばり)を、チラっとめくりあげた梨次郎は、ほれ、ここが高田さんの飼ってる猫たちが棲まう猫屋敷だぞぉ、と指を差した。いくら多頭飼いでも、猫だけのものとしては、かなり立派な屋敷だった。しかもここは離れであって、主屋はまた別にあるという。かつて一円で、広く商いをしてきた高田家のことはある。
高田芳雄さんは、1978年に野村川湯ユースに、たまたまやって来た。
バイクにまたがり、峠から見下ろした先に、川湯がぼんやりと眺められた。俺は、あそこに寄ってみよう、と直感的に思ったらしい。まるで、ずっと前から定められた、約束の場だったように。
当時の高田さんは、学生でもなく、しかし就職もしておらず、フリーの旅人だった。しかもユースにいる学生たちに較べれば、いくらか歳が積もっていて、その分、落ち着いて見えた。風貌は、イエス・キリストと痩せた阿部寛(俳優)の混血みたいな感じで、いつも物静かだった。
終日、ひたすら遊んで過ごす、暢気な学生ホステラーの夏休みではなかったのだから、旅の先々で、仕事を見つけては働いて、それを糧とした。ユース周辺の牧場や土産物店、旅館、ガソリンスタンドなど、父さんの紹介や、地元の人伝に仕事を見つけては、転々と、実直に、短期間のバイトを続けていた。
ユースには泊まっていても、ミーティングや遊びの輪には加わわらず、写真に写ることすら避けていて、傍観するのがほとんどだった。しかし、楽しく騒ぎ廻る若者たちの姿を眺めるのは、イヤではなく、むしろ好ましくも感じていたらしい。高田さんの性質として、目立つのを嫌う。控えめで、静寂を好み、冷静で、いつも内省的だった。
……そういう旅のスタイルを保ちながら、思うに任せてふらふらと日本中を歩いていた。
そして、時季は異なっていても、毎年のように川湯に訪れるようになり、滞在日数も長くなった。だから旅人としての通算の川湯滞在期間は、恐らく最長記録を持つのではないか、ともいわれている。
|できなくなった旅
高田邸の主屋は、雑木林のような広い庭のなかに佇み、雪国らしい堅牢さの感じられる、重厚な造りの建物だった。
梨次郎一行は前庭に駕籠を止めて、玄関先で案内を乞うと、じきに高田さんが現れた。少しだけ照れながら、笑っていた。
もちろん、長い髪も、伸ばした顎髭も、白くはなっていたが、それでも瞳には精気があって輝き、優しい目許などは、若い頃とちっとも変わっていなかった。
……やあ、久しぶりだなぁ、とか、国言葉の抑揚とともに、梨次郎たちの訪問を、喜んでいるのが分かった。あまり慣れていないようだったが、促されて皆とハグなんかもしたりして、しばし旧交を懐かしんだ。
まあ、上がれぇ、といって通されたのは、応接間ではなく、いきなり厨(台所)だった。
煮炊きには、たまに瓦斯(ガス)も使うが、基本的には薪で行われ、水は自然のものが引かれている。また厠(かわや)は、雨水を溜めて流すような工夫がされていた。
大型テレビはあるにはあるが、アンテナにつなげておらず、夜間、ラジオを聴いては、世間の動向や情報を得るという。PCや携帯電話など使わず、ダイヤル式の黒電話が引かれているのみ。立派な浴室があっても、冬期でも、わざわざ自転車で近くの温泉場にまで通っているらしいし。エコな、ロハスな暮らしぶりだった。
そんな日常にあって、若い頃からずっと欠かさずに日記を続けていて、いつ、どこで、なにをし、例えば、旅の途上でも、その日のルートやどれほどの距離を走ったか、とか、なにを感じたかなど、克明に記されている、らしい。ならば、それを読ませてほしい、と、しつこく懇願してみたが、あっさりとかわされた。
高田邸は、ざっと20室ほどの部屋数があるだろうか。梨次郎は、以前、訪れたときには、厨にしか立ち入れず、失礼ながら、今回は広い邸内を勝手にあちこち歩き回り、次々と戸を開けては、室内の様子を窺っていた。
今はこの邸宅に、老いた母と、猫と一緒に棲んでいる。そして、高田家の長兄としての果たすべきこともあって、もう旅はできなくなった。
なにせ、旅の足だったバイクや車もすでに手放し、現在残っているのは、自転車しかなく、十和田湖に出掛けるのがせいぜいだと、高田さんは、薄く笑った。■〈続く〉(ゆ)
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