野村川湯YH 世界~ あの街ぶらぶら歩き  ナガサカ×オバケ | 野村川湯YH 野村川湯ユースホステル

世界~ あの街ぶらぶら歩き  ナガサカ×オバケ

連載 旅

ゆっくりゆっくり歩く橋の道
サンフランシスコ/San Francisco(アメリカ合衆国)
オバケ(大川教子)

 

■ハリウッド女優? になった気分

ヨーロッパ旅行ですっかり海外旅行に魅了された私は、「次は、アメリカに行こう」と思ったのです。1986年の夏のことです。

……とはいうものの、ヨーロッパでほとんど言葉を喋れなかった私は「英語が話せたなら、旅がもっと楽しめるはず」と思い、まずホームステイをしながら、ワシントン大学で3週間の語学の講義を受けることに決めて、アメリカに出発しました。場所は、西海岸の北部、シアトルです。

当時はまだ、もちろんイチローはマリナーズに入団していなくて、でも、ボーイングやマイクロソフトはすでにシアトルにあった、はずです。

そして3週間後には、きっと英語が話せるようになり、その後に1週間の旅行を楽しもうと、サンフランシスコ行きも決めていました。

もちろん、そんな簡単には英語を話せるようにはなりませんでしたが、ホームステイをしていた日本の学生さんも一緒だったので、3週間後にはなんとかサンフランシスコに旅立つことができました。

ホームステイ先の家族と、一緒に語学の講義を受けた学生たちと。 私は、肩に手も廻さずに、ちょっと遠慮気味です。 それと……今回はサンフランシスコの話なのに、なぜか写真が1枚も残っておらず、ここで紹介する写真は、以下、すべてシアトルにて撮影しましたので悪しからず。1986年8月

 

サンフランシスコは、自由の国・アメリカという感じで、空はどこまでも青く、今ならなんでもできそうなそんな空気感がありました。

最初の目当ては、坂道を上るケーブルカー(路面電車)。CMで見たシチュエーションにハリウッド女優? にでもなった気分で、心躍らせていたのです。

午前中は講義を受け、午後からは学校近くの公園や名所などを訪れるショート・トリップにみんなで出掛けていました。

一緒に行った大学生と路面電車に乗り チケットを購入。

「日本人、若く見えるからユースで大丈夫だよ」

といわれてその気になった私は、チケット売りのおじさんに、

「ユース,プリーズ」

と、いってしまったのです。

おじさんは「まさか??」という目でジロジロ見てきましたが、もう後には引けないと、私は必死で、とにかく目を合わせないようにしました。

……やっぱり 無理があるよね。当時27歳でしたし。

根負けしたおじさんからなんとかチケットを手に入れ、やっと電車は走り出しました。

ケーブルカーがサンフランシスコの坂を下りはじめ、目の前に青い空と青い海が見えたときは、なんともいえない幸せな気持ちになりました。

シアトルの住宅街です。キレイだな、と感じました。 シスコではありませんので。

降り立ったのは、フィシャーマンズ・ワーフ。

ここには魚介を料理するレストランが、所狭しと並んでいました。

カニを食べたかったのですが、高くて無理。シュリンプカクテルを注文して海を眺めながら、お酒を少し。

私の体のなかを巡るBGMは「カルフォルニアの青い空」(アルバート・ハモンド)が、心地よく流れていました。

「自由だー」と叫びたい気持ちになりました。

 

もうひとつ行きたかった場所。それは ゴールデン・ゲート・ブリッジ。

当時、バイブルにしていた「地球の歩き方」のオススメ・スポットに向かいました。

ゴールデン・ゲート・ブリッジすべてを見渡せるという公園で全体像を眺めた後、車が行き交う橋の歩道を歩いて渡りました。この橋は、3キロ弱の全長があります。

海と車を交互に見ながら、私は、ゆっくりゆっくり歩く。これぞ旅の醍醐味。誰にも時間を邪魔されずに過ごす、至福の時。素敵な旅の思い出になりました。

シアトルとは、かつてこの土地を所有し、住んでいたネイティブ・アメリカンのリーダーの名に由来するそうです。スタバは、1971年にこの街で生まれました。

日本に戻り、アメリカ旅行は、とても楽しかったのに、でも、なぜか物足りない!

次は、もっと文化の違う発展途上国に行ってみたい、そんなふうに思うようになったのです。結局、ヨーロッパもアメリカも、日本と同じような水準で、もうひとつ刺激が足りませんでした。圧倒的に景色の異なる、もっと土の匂いを感じつつ風景を眺めてみたい、と感じました。

そして私はそれ以降、インド、中東、アフリカなどへと足を伸ばすようになりました。■

 

 

コメント

野村川湯小学校