ひとりで歌う旅の終わり
ヘルさん(板垣秀雄)
■辿り着いた夢のニセコ
野村川湯ユースホステルから別れて、早いもので、もう40数年も過ぎて、私は73歳になりました。「旅の終わり」を仲間たちと一緒に、夢のような旅だった♪……と歌ったのも、薄ぼんやりとした懐かしい思い出です。
そもそも私が北海道に来たのは、横浜の会社で5年も過ぎたお正月に、スキー部の友人から誘われて、スキーに行ったのがきっかけでした。私の入った初心から初級のクラスは女性が多く、嬉しいやら、楽しいやらの2泊3日でした。
その後、そのシーズンにのべ30日も、長野県や新潟県やら、あっちこっちのスキー場に行っていたら、今までの貯金がなくなってしまい、これはヤバい……、と思っていろいろと考えました。
それで、こんな楽しい人生もいいなあ……と、6月のボーナスをもらったらすぐに会社を辞め、どうせスキーをするんなら北海道へ行こう……となりました。
会社を辞める時、偉い人から「世の中はそんなに甘くないぞぉー」とか、両親からも「え~ッ」とかいわれましたが、まぁ、いいか、と思いました。
その後、北海道に来てからは、あっち、こっちとブラブラと旅をしながら、7~8月は野村川湯YHのヘルパーをしてから、また、ブラブラと知床の民宿の客引きなどをして、さらにブラブラしてから、やっと11月の終わり頃に、夢のニセコヒラフスキー場に着きました。
リフトのバイトをしながら、ナイターや休みの日は朝から晩まで、なにかに取り憑かれたように滑りまくりました。はじめの頃は、緩い斜面でもコテン、コテンと転ぶものだから、いつの間にか「ヘタガキ」と名前まで変わりそうでした。それでもスキーを楽しみながら、少しずつ貯金が増えていくのはオモシロイ。
■太公望として楽しむ
毎日、滑りまくった結果、シーズンの終盤頃には2級のバッジテストに受かり、次のシーズンには1級、また1シーズン後には準指導員、ついにその2年後にはスキー指導員と、なんと1回も落ちることなくバッジをもらいました。悪運が強いのもありますが、これは私の自慢のひとつです。スキーが上手になっていくと、ニセコアンヌプリの山頂から深雪を滑ったり、春スキーでは、スキーを担いでお弁当を持ち、羊蹄山に4、5時間かけて登り、噴火口なども滑ったりして、楽しみました。
その間、30年間も小さなロッジをやりながら、スキー・スクールでは5,000人以上の人々に、スキーの楽しさを教え続けてきました。
ところが時代はいつの間にか移り変わり、ニセコにオーストラリアとか外国人が多く来るようになったら、なにか雰囲気が変わってきたようで、きっぱりと止めてしまいました。
今は、積丹半島のつけ根の余市にいて、ここに移って来てからは、冬は近くの小さなスキー場で、スキーやスノーボードを楽しんだり、です。
春からは、近くの海でニシン、カレイ、ホッケ釣り、夏は川でヤマメ、イワナ釣り、また秋には、イカ、サバ、メバルなどと魚釣りにも目覚めて楽しんでいます。
今まで、喜怒哀楽がさまざまあって、「世の中そんなに甘くない」のかもしれませんが、振り返ってみても、まあまあの人生だったかなあ?
そして、海や川では、周りに誰もいないときに、大きな声を張り上げて、♪夢のような旅だった……、と、ひとり歌っているのです。■
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