都市の谷間のような
露地で見かけた
個人主義
キンタ(木下 透)
高速道路と、交通量の多い幹線道に挟まれた谷間のようなここは、いつもとても静かだ。
雑踏を外れて、ほんの少し路を奥に進んだだけで、都市の真ん中にあるとは思えないほどの、気ままな空間としての露地が、四季折々にいつも拡がっている。
どれほど自由で気ままかといえば、木の根元に腰を降ろして、鯛焼きを食べている大柄な西洋人がいたこともあった。
ゆっくりと1匹の鯛を食べ終えてから、大きくひとつアクビをし、また次の鯛に取りかかる様子は、とても慣れた手つきで熟練しているようだった。
また別のオジサンは、キャリーバッグから愛おしく、大事そうに、リカちゃんみたいな人形を取り出して、いきなり写真を撮りはじめた、同じ場所で何カットも。
2時間ほどして戻ってみると、まだオジサンはさっきと同じ場所に留まり、執拗に写真を撮り続けていて、そのしつこさに驚いたこともあった。
この都会の露地は、気晴らしと暇つぶしと、軽い運動と、それから、別れの場だ。
出会いも、確か、ほんのたまにはあったような気もするけれど、見ていると人々は、互いがほとんど交わることもなく、やりたいようにやっている。
たぶんこの中国人の若い女は、電話でやや込み入った、面倒な別れ話をしている、と思った。時々、怒ったように早口で話したり、押し殺したような小声になったりしていたからだ。決して笑わず、でも泣くこともない。
別の西洋女は、ジョギングに疲れたのではなかった。
だって、走らずに、歩いているだけの様子を私は見ていて知っていたのだし。なのに、ずっとうつむき加減だ。……空(くう)の空、空の空、一切は空である、と、コヘレトはいう。
幼子の笑った、今のこの瞬間を写真に撮ろうとしている親子の横では、ひたすらヨガに集注してポーズする女がいて、あなたたちはあなたたち、私は私なのよ、とでも主張するみたいな頑なな雰囲気もあり、尊重ではなく、干渉しようとしない態度には、潔さも感じたりして。
ヨガ……といえば、この青年も、ヨガかピラティスか、それとも心理的な修行を積むことを目的とした瞑想なのかも。その日もまた、夏の夕暮れの空を見上げながら、やがて目をつむり、自らの呼吸だけを意識するように、そのうちにじーっとして、岩のようにしばらく動かなくなり、風景のなかに溶けていった。それはこの日だけでなく、別の日にも、秋にも冬の日の夕方にだって、同じ場所の同じような時刻に青年はいつも座り、もう見馴れた風景の一部になっている。
この都市の裏側にある露地と小径には、どこにも表示やピクトグラムがマークされていなくても、自然に作られた私的な、縄張りみたいな占有空間があって、この日この時だけの社会的な距離が自然にできており、いつも面白いと感じる。そうだ、野生の鳥たちのコロニーにも、これに似たようなのがあったよな、と気がついた。(談)
写真=いずれも東京都新宿区にて撮影
コメント