ニューヨークのパーク・アベニューも、ローマのベェネト通りも、それから原宿の表参道だって、たまに歩くのはいいとしても、どこか気取っていて、あまり馴染めません。
たくさんの人々が行き交う繁華な通りを、ほんの少しだけ逸れて、裏側の小径や、露地に入ってみると、意外に、とても静かで、市井の人々の暮らしや、穏やかな素顔が見られて、ほっとしたりします。
野村川湯が生んだ幾人ものプロ・カメラマンたちは、あちこちの街を訪れて、分け入った先にあったであろう小径を、どう歩き、なにを感じて、眺めて来たというのでしょうか。
……ここでは、日本や世界各地の小径や露地で見つけた様々な風景を、カメラ魔、キンタ、トモノに、順に披露してもらおうと思います。
水溜まり
キンタ(木下 透)
その日の夜は、なかなか客がつかずにいた。
たまたま、すぐ横を通りかかった中年の女に、顔すらろくに見ずに、いつものキャッチ・トークからの説明を矢継ぎ早にはじめると、女は足を止めた。
「わたしは、一杯だけ飲めればそれでいいのよ、たくさんはいらないわ」という。
しばらく、なんの差し障りもない軽い雑談をしながら、女の様子を窺い、オレは面白くもない定番の冗談をいっては、自分から大げさに笑ったりしてみせた。
それで、とても静かなお店だし、一杯だけでも構いませんよ、といって誘ってみたら「そう、それだったら、よさそうだわ」といって、あっさりとついてきた。
これでやっと、ひと息つけそうだ、と思って、店まで案内した。
オレが客を捕まえて来たと知ると、店長が嬉しそうな顔をした。
バーテンたちに、今夜のサッカーの試合経過やスコアーなど聞きながら一服していたら、さっきの女客が、オレを呼んでいるという。とっさに、あぁ、またクレームか、と思って身構えながら、席までゆっくりと歩いて行った。
「いいお店じゃない。……ねぇ、一杯だけ飲んだらここを出るから、どこかに飲みに行かない?」という。
自慢じゃないが、オレは女によくモテる。
気の利いたことをいうでもなく、なにかをすることもなかったのだが、女の方から誘われるのはいつもだった。オレには若さがあり、ただニヤニヤと笑ってさえいれば、それでよかった。
▼意味なく笑う
その女から、時々、電話があって、会うようになった。
どうでもいいような世間話ばかりだったが、オレは我慢強く聞いて、軽くうなずき、時々、意味もなく笑っていた。そんなやり取りに飽きてくると、自分の出自や過去のこと、この先の歩み方について、女はぽつぽつ話すようになった。一緒にいても、退屈しない女だった。
オレは、客引きをするのは生活費を稼ぐためで、そのほかにはなにもなかった。今が過ごせれば、それだけでいいと思っていた。
彼女は、若い頃に結婚し、別れた後は、友人の立ち上げた会社でファイナンシャル・プランナーとして生計を立てていた。だが年とともにオーダーも減りはじめ、この頃では仕事に疲れを感じている、という。
女はそんな迷いを抱え、人生行路も思うようにはいかないと嘆くが、オレは彼女の人柄に惹かれはじめ、それとなく支えるようになった。彼女も、オレが自分の気持ちを汲み取ってくれようとするのを薄っすらと感じているのか、心を許すようになり、いつの間にか、ずるずると女の部屋でオレは暮らしはじめた。
▼学生のような男
深夜、オレが仕事から戻ると、玄関に知らない男物の靴があった。
部屋に入ると、学生のような若い男が立ち上がり、オレと目も合わせずにスレ違い、挨拶もなく帰っていった。
彼女が、空いたビールの缶やコップを持ってシンクに向かい、オレは椅子に座ろうと思ったら、ちょうど男の立っていた足許に、そこだけに水溜まりができていた。いつも椅子に置かれているクッションに触れてみたら、ぐっしょりと湿っていた。
今のあの男は誰だ、とか、彼女はなにも説明しようとしなかったし、オレも訊ねもせず、普段通りの、穏やかな夜が過ぎて行った。
「そろそろ休もうか。……わたし、明日はいつもよりも早く出るから」
彼女のそんないい方も、いつも通りだった。
ただ、その夜のセックスだけは、いつもとは違った感覚が残った。彼女との情交は、枯れもせず萎(しぼ)みもしなかったし、不足するものもなかった。それに渇きのようなものもなかったが、しかし、喜びもなかった。それが今夜だけは、異なっていたように感じられた。
オレは、客引きのバイトを続けながら、当面、この女から離れずに生きてみようか、と気持ちを固めながら、すーっと泥のような眠りに落ちた。■
コメント