街の公園でも、散歩コースにしているような近くの丘にも、たとえば青い樹々がすくっと立っていたりするのを見ると、頼もしくほっとし、清々しく感じたり、時々、思わず深呼吸をしたくなったりします。
私たちの身近にある樹木にも、原生林の奥に逞しく育つ木にも、ちゃんとした名前がつけられていて、地方名や俗名のような、いわば、あだ名みたいなものもあるといいます。
現役の樹木医としても活躍する真くんに、ここでは、各回1種ずつ、日本に自生する木の名前にまつわる興味深い話や、種としての性質や特徴など、豊富な実体験と見聞を交えながら、実用的でためになる連載をしてもらいます。
(6)春の雑草を中心に
強い生命力と知恵
真くん(堀 真也)
♪この~木なんの木 気になる木……でも、今回は草。
「雑草という草は無い、どんな草にだって名前は付いている」。日本植物学のレジェンド牧野富太郎の言葉である。
雑草の定義に明確なものはない。古くは樹木や農作物以外の雑多な草という意味の総称であったが、時代と共に田畑やアスファルトの隙間に勝手に生える人に望まれない植物の総称となっている。言わば嫌われ者だ。それが里山などに生えていれば山野草と名を変え親しみを持って呼ばれる。まったく同じ草でも、だ。
邪魔者扱いの雑草でも春や秋には花を咲かせる。それは可憐であり儚くもあり、都会のビルのほんのわずかな隙間に生きる雑草たちを目にするたびに、強い生命力と生きる知恵を感じずにはいられないのだ。
雑草は「雑草魂」という言葉があるように、強い、負けない、諦めないイメージがあるが、実はそうでもなく植物の中ではとても弱い存在なのだ。自然界の植物は絶えず光と水分の奪い合いをしている。その戦いに勝った強い植物だけが豊かな森を作りだす。だから弱い雑草はその戦いには挑まず、逆に強い植物では生きられないような、道端や畑など絶えず人がいる場所を選んだのだ。しかし、戦っていないわけではない。そこには人間との戦いが待っているのである。雑草は除草される。刈り取られる。それでも後を絶たないのは彼らが環境の変化をいち早く察知し進化しているからなのだ。(生きるため、子孫を残すための戦略は見事であり、実に興味深いのだ)
江戸時代の飢饉では、人々は身近な草を食料として飢えをしのいだ。それは「救荒植物」という雑草を中心とした植物たちだ。そんな人々の飢餓を救った雑草たちも、やがて飽食の時代になると厄介者となり、果ては除草剤で枯らされるのだ。
人間がいなくなっても雑草たちは困らない。しかし雑草たち植物がいなくなったら人間は生きていられないことを人々はもっとよく知るべきなのである。
道端の気にもならい草にも立派な名前があり、価値があることを子供たちに知ってもらいたいと思う私なのだ。
あっ、明日の仕事は除草剤散布だ……二度と雑草を語るな!
そんな矛盾こそが人間なのだ。
そんな真でした。では、また。■
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