野村川湯YH 母さんを偲んで | 野村川湯YH 野村川湯ユースホステル

母さんを偲んで

母さんを偲んで

私たちみんなの「母さん(上田久子さん)」が、2021年11月6日に他界されました。89歳でした。残念で、気が抜けるように寂しいです。

母さんが、父さんと一緒に、野村川湯ユースにやって来たのは、1975年のことでした。それから5年間、ペアレントを務めていた期間が、そのまま野村川湯の最盛期に一致します。

母さんは、厨房作業の一切を取り仕切り、合間に、繕いものや一部の宿泊者の生活指導など、縁の下に廻って裏方としてユース全体を寛容に包み、支えた、肝っ玉母さんでもありました。

皆に慕われ、物心両面から世話になった宿泊者も多くいて、ここでは、そんな母さんの思い出や、感謝や追悼の気持ちを集め、送る言葉に代えたいと思います。

母さん、いつまでも元気でね、行ってらっしゃい……

(*母さんを送る言葉を、常時、受付けています。nomurakawayu@gmail.com まで)

 

母さんの教え

兄さん(上田 進)

 

昔、母さんからよく言われていて、耳についている言葉があります。

ひとつは「若い頃の苦労は、買ってでもしろ」。

もうひとつは「人の悪口は言うな、悪口を言うと自分に返ってくる」です。

ひとつ目は「他人が嫌がることを率先してしなさい」ということ。ふたつ目は「心情的に悪口など、人の嫌がることはしない方が良い」ということだと、肝に銘じています。

野村川湯ユースホステルに宿泊の皆さん。この度の母の葬儀に際し、献花並びに沢山の弔電ありがとうございました。お陰様で無事葬儀を終えることができました。

全ての弔電文をご披露出来ませんでしたが、皆さんの思いは伝わり母も喜んでいることと思います。

ありがとうございました。■

 

 

目標と戒め

母さんとの一番の思い出は、やはりユースでの食事の手伝いです。

一緒に、大振りなおにぎりを作ったり、味見だといいながら総菜をつまみ食いしていても、ほとんどの場合、笑って許してくれて、側に母さんがいると、私はいつも、ほっとしてました。

夕食の準備がはじまる前の昼下がりには、時間があれば、ふたりで布団や毛布などの繕い仕事をして過ごしましたね。そんな折に母さんからは、人生の歩き方や知恵を教わりました。女同士の、深遠な話もたくさん聞けましたし。

……そうですね、今でも覚えている母さんの言葉は、20代の頃は、いつまでも飛んで歩いてなくて落ち着くように、といわれていました。30代になってからは、両親を大事にするようにと、よくいわれてました。それらは私にとっての目標でしたし、また戒めでもあり、私なりに、実行してきたつもりです。

母さんには、ありがとうの気持ちでいっぱいです。心からお悔やみを申し上げます。■友ちゃん(高木友子)

 

ひとり占め

高校3年の2月初旬、1週間ほどもユースにいて、ほかに宿泊者はいませんでした。ずーっとなにもせず、ぼーっと、閉じこもっていました。

凍えるように寒い朝でした。ご飯を食べ終えると、母さんが、八朔と、それと同じくらいの大きさの握り飯をひとつ、渡してくれて、摩周湖にでも行って来たらいいさ、といわれました。仕方なく、雪道をとぼとぼと2時間ほども登って展望台に着くと、やはり人っ子ひとりいません。大きく丸い鮭の握り飯と八朔を、カラスと一緒にゆっくり食べてから、帰途につきました。同じことが、3日間も続きました。

母さんは、ひょっとして意地悪をしてるのか、親切心か、分からなくなりかけ、明朝はどうやって断ろうか、と思案しながら坂道を下りました。戻ると、三公がいました。

目的や予定を持たない旅の醍醐味と、ひとり占めした雪の摩周湖の静寂と偉大さを、母さんに教わりました。お礼申し上げます。■キリン(長谷川浩二)

 

とても寂しい

母さんには、ユースで1ケ月近くお世話になり、家事を手伝って、いろいろ教えてもらいましたね。

10年くらい前、中標津を訪れ一緒に過ごすことができたこと、東日本大震災が起きたとき心配して電話をくれたこと、とても嬉しかったです。

同窓会で元気そうな様子を知り、安心していたので、とても寂しいです。

母さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとう、母さん。■マヤちゃん(福井真也子)

 

大きなおむすび

このたびは残念なことでございました。まだまだお元気でいていただきたかったです。私も寂しくなるばかりです。

母さん=あたたかい。私は2回しか行けてないですが、やはり旅立つ時に大きなおむすびを持たせていただいたのが印象的です! 母さんのような、素敵な笑顔になれるよう、一生懸命生きていきたいですネ。■のりちゃん(畑中範子)

 

万感こもごも

中標津の家に母さんと、父さんを、何度か訪ねたことがありました。今、思うと、それももう、ずいぶん前のことになってしまいました。

この度の知らせを聞いて、ただただ残念だ、と思いました。

後悔はいつも先に立たないのだけれど、そんなことは百も承知してはいても、それでもなお、母さんが元気なうちに、もういっぺんだけ会って話をしたかった、ただ顔を見るだけでもよかった、……会いたかった。

万感こもごも到りつつも、言葉に出せば、それだけのことになってしまい虚しさを感じます。■高田さん(高田芳雄)

 

信頼する人

私達の結婚が近づいたころだったかなぁ……。ふたりで父さん母さんに結婚の報告も兼ねて会いに行きました。近くの民宿をとって、夜遅くまで父さんとしっかり飲みました。母さんも、よく付き合ってくれました。

そのとき母さんが、今の妻にかけてくれた言葉「のうまくんだったら大丈夫だぁ」。

このひと言の重みが、歳を重ねるたびに私に重くのしかかってきます。妻は忘れてるかも知れませんが。私には、逃げられない重たい言葉です。

皆さんもご存知のように、母さんは人を信頼する人です。あのころの未熟な私にさえ、信頼してくれてたんです。悪いところは見ないで、わずかな、いいところだけ、見てくれてたんですね。ほんとに大きな女性だと思います。■のーまくん(田中 仁)

 

割烹着姿の笑顔

いつもニコニコ笑顔の母さん。目を閉じれば、割烹着姿の母さんの笑顔が浮かびます。

もう一度、逢いたかったなぁー。

先に、父と母が行ってます。もし逢えたら、あの頃の思い出話しに花を咲かせて、仲良くしてね。■ナベちゃん(土川貴美子)

 

いっぱいもらった

最初に川湯に行ったとき、真くんに「父さんと母さんに名前を覚えてもらったら、いい旅ができてる」って言われた。その意味がわかって、真くんはすごい人だと思った。

そういう旅をさせてくれた父さんと母さんは、もっとすごい人だとわかった。優しさ、思いやり、気遣い、母さんから温かいもの、いっぱいもらった。

ごちそうさま。ありがとう。みんなのこと忘れないでね。■ともの(友野 正)

 

さよなら母さん

母さんのくれたドテラ……温かった。

母さんの作った旨いご飯……温かった。

母さんのまん丸な手……温かった。

母さんの笑い声……あたたかかった。

母さんが怒っても……あたたかだった。

母さんの呼ぶ声……あったかだった。

母さんとの思い出……ぜんぶ、あったかい。

涙が出るよ……さよなら母さん。■フッコ(横関福好)

 

好きだった牛乳豆腐

最後のお別れに行ったら、おばさんはちょっと小さくなってました。

そばにあった遺影は、いつものようにとても暖かく、優しい笑顔の、みんなの母さんでした。「大ちゃん、よく来てくれたね」と、声が聞こえるようでした。

中標津に行ってからは、めったに会いに行けませんでしたが、牛乳豆腐が好きだったので義母が作ってくれた時、ほんの数回でしたが届けるととても喜び、帰りには必ずなにかを持たせてくれて、「大ちゃんは嫁なんだから」と、気を遣ってくれました。

一度会っただけでも、優しさが伝わる母さんでした。私もそんな人になれるように、近づけるよう努力しないと、と思っています。■大ちゃん(中澤多恵子)

 

温かさのかたまり

母さんと、初対面の時でした。

父さんが、芋団子でも焼いて喰わせてやれ、といいました。母さんは薄く笑いながら「……芋みたいなものを」というようなことをいって、薪ストーブのうえで、団子を焼いてくれました。その時の、母さんの笑顔が、今は頭のなかを駆け抜けて行きます。

温かさのかたまりのような方でした。■加藤くん(草薙修二)

 

しばしばの連想

……告白します。その人の書く物語には、札幌や釧路とか、道東の街が舞台になることも多くて、読んでいると、ちらちらとあの頃を思い起こします。しかも、そこに描かれる女の人は、大体、逞しくて、粘り強く、そのくせ深い親愛の情があったりするものだから、母さんを、しばしば連想していました、ひとりで、こっそりと。

たくさんお世話になりました、ありがとう、母さん。■テツヤ(森下泰文)

 

そばにいて、ホッとできた

母さんはいつも、ドーンとしていて 笑顔で、割烹着が誰よりも似合う。

私達が、豚肉を薄ーく伸ばしている横で、キャベツを山盛り刻んでいた。そばにいてくれるだけで、ホッとできた。母さんを思い出すと、あったかい気持ちなる。母さん、ありがとう。■おばけ(大川教子)

勝負服でもあり、晴れ着でもあった、母さんの割烹着姿。1979年頃

 

コメント

  1. 真。 より:

    必ず、墓前に伺います。合掌。

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