野村川湯YH 解題「月刊川湯」 | 野村川湯YH 野村川湯ユースホステル

解題「月刊川湯」

連載 月刊川湯

第4回
届かなかった「茶」の願い

 

■流浪する「小坊主」

真くんとフッコが野村川湯で、たくさんのホステラーを巻き込んで、踊り狂い、お騒ぎをしているなかに、新潟県長岡市からやって来た、ひとりの男子高校生がいました。やっぱり皆さんと同様に、そこでの体験や、仲間たちのことが忘れられずに川湯が好きになり、以降、毎年のようにユースを訪れるようになります。

当時の、1976年の夏、その男子・鈴木和彦は、「小坊主」と呼ばれていました。真くんがあだ名をつけ、それが言い得て妙だと、小坊主に会ったことのあるほとんどの人がそういって感心しますから、きっとそうなのでしょう。

ところが、数年経つと、そんな仲間たちからも小坊主とは呼ばれなくなり、茶坊主、または、単に「茶」といわれるようになり、それがすっかり定着しました。どうしてそうなったのか、とか、誰がそう呼びはじめたか、など詳細は分かっていません。

「月刊川湯」のBNを辿ってみると、「茶」のほかにも、まだいくつかのあだ名や、呼び名があったようで、こんな人も珍しいのかな、という感じがします。なぜ、そんなことになっちゃったんでしょうか?

 

さて現在、茶はもちろん健在ですし、故郷で元気に暮らしてるようなのですが、昨今、わたしたちの前には姿を現さず、音信も途絶えが勝ちみたいです。

誰でもそうだとは思いますが、やっぱり若い頃の気ままさ、自由さや心情と、今の置かれた環境や気持ちなどによっても、人とのつき合い方は違ってきます。浮き世の常として、いつも同じようにはいかないのが現実です。

■乙女たちの人物評価

茶は、川湯をたびたび訪れ、滞在期間も長期に渡っています。また、学生時代は東京・新宿に暮らしていたこともあって、当時、親しくしていた川湯仲間は多いようです。しっかりと、川湯史に足跡を残しているひとりなのです。

……とはいいながら、ここではまず、わたしを含めて、茶に会ったことのない人たちのために、茶が、どんな性質の人物なのかを、拾い集めてみましょう。すると、大らかで、ゆったりと身構えた、夢のある、逞しい男子だ、ということが浮き彫りになりました。

たとえば、「私の男性理想編」(17号 81年3月)を参照しても、明らかです。

1981年3月発行の17号。 この号の制作は、東京で行われていて、「私の男性理想編」は、北海道から送られてきた表をそのまま記事にしたようです。ここでは「茶坊主」が使われています。

この表組みは、当時、北海道在住のうら若き5人の乙女たちが、男性を選ぶ場合、どんな性質を基準にしているかを、最も重要なファクターから順に7つを横軸に挙げました。あくまでも、男を選ぶ場合の条件として、です。たとえば毒リンゴなら、男を選ぶ際、広い心で見守ってくれる人、という条件が最重要で、ネチネチしてない男が、6つ目の条件、7番目には、太陽にほえろ!のドック(神田正輝)、という意味です。

そうして5人の乙女が、各々の条件を出し揃ったところで、では「仮に川湯の男たち」をこの表に当てはめてみると、どうなるか……、を協議しました。○印は、その男を選ぶ決め手となった要素だといいます。そういわれてみると、キリンはウィトゲンシュタインやニーチェのような高邁な哲学はなくとも、独特の哲学みたいなものは持ってるような感じがしますし、キンタに、強引なところがある、といわれると、そうかもな、と、納得したりして。なかなか興味深い結果です。

ともかく、茶は、大らかで、夢があり、心が広くて、逞しい、というイメージだというのです。かなりの高評価です。

それから、恐らく皆さんの手許にもある「写真文集」に写っているたくさんの人のなかに、茶を探すのは、割と簡単だといいます。上半身が裸、または、白いランニングシャツ姿に、黒い短パンを穿いている人物を探せばいいのだそうです。他にそんな人は、いませんからね。それを見ると、確かに、逞しいみたいですねえ。

今でいう、ムキムキとか、そういう体つきではない、ほどよく豊かな健康美が備わっています。痩躯ではないのですが、でも肥ってもおらず、いわれるように、大らかで好感が持てるような姿です。

■「愛のノート」より

……しかし、人は見かけによらないことも多いのです。というよりもむしろ、人を見かけだけで決めつけてしまっては、判断を誤ることも多々ありますから。そしてどうやら、茶には、ロマンチシストの一面もあるようなのです。

思春期の頃、大方の女子は、ノートの隅などにたくさんの詩や叙情的な散文を書き残したりします。わたしの友達のなかには、詩だけを書き連ねたノートを、何冊も持ってる子だっていましたし。わたしも、そういう時期がありました。でも、やがて成長し、それらを読み返してみると、甘えてるだけのようだし、ワガママでもあり、なにより恥ずかしくなってしまって、だからそんな若気の至りは、とっくの昔に燃やせるゴミに混ぜて、捨ててしまってます。

ところが、茶の書いた詩は、しっかりと「月刊川湯」に残されていて、ありがたいことに、今、私たちがそれを読み、当時を思い起こす手掛かりともなるのです。

個人情報が含まれるものや、いかにも具合が悪い、と思われるものはここに再掲載しませんが、茶の当時の心境が色濃く映し取られ、また、好感が持てるようなものを、いくつか見つくろってみました。

これらを読むと、茶は、浪漫派であり、また愛に悩みながらも、気宇壮大な男性だったのかな、と思えますね。それに、「愛のノート」みたいな、適当にノートの端に落書きするようなものでなく、単独の詩集のようなものを作って書き連ねていた、ようですから、凄いですよね。

「なんにも」としないで、「なンにも」と書かれていて、この詩への茶の注力のほどが、よく分かります。どうも当時は、恋多き男だったらしいです。できれば「愛のノート」を全部読んでみたかった。7号80年3月発行

硫=茶であり、一種のペンネームのようなものでもあります。 こちらの詩では一転、旅先での別離の哀感が詠まれています。君とは、誰のことなんでしょうか。まさか、土方さんではないですよねえ。4号80年1月発行

「君」というタイトルの詩は、旅先で、別れ去って行く友への、哀惜を記した詩のようです。川湯で出会い、一緒に長くユースに留まり、ともに遊んで笑って過ごせば、情が移るのももっともです。そして、いよいよ帰る日の朝を迎えてしまった……。

茶の震えるような繊細な胸のうちが、伝わってくるようです、……でもこれって、茶の書いたものではないのでは、と疑問に思う方もいるでしょう。わたしも最初は、「茶」=「硫」ということを、知りませんでしたし。

茶は、小坊主の他にも、「硫黄山の主」などという異名というか、別名があったんだそうです。ひとりで幾度となく硫黄山に登ったり、露天風呂に入りに行ったりするのは、しょっちゅうだったようですね。みんなと一緒に登り、騒ぐこともあったそうですが、誰にもジャマされずに、硫黄山から湧き上がる大地の鼓動や、命の勢いを静かに感じることを、とくに好んだようです。そういう自然の雄大さへの憧れや、好きな場所へのトリビュートもあって、自らを「硫」と名乗っていたみたいです。

茶が、どれほど硫黄山を深く愛していたかは、次のエピソードを知れば、きっと皆さんも合点がいくことと思います。

21号81年9月発行のこの記事では、茶の硫黄山愛を知ることができます。また、酒もかなり好きな、辛党だったみたいですね。 それからこの記事でも、最初は「茶坊主」と書かれていますが、最後には「茶」と略され、表記が変化しています。単純に、めんど臭かったんでしょうか。

■「おおぼうず」と「ちゅうぼうず」

先にも触れたように、「茶」という呼称は、かなり早い時期に浸透していたのですが、小坊主も、併行して使われていたのかな、と思われる形跡もあるんです。

というのも、本人に面と向かってる場合には、小坊主と呼びかけ、いない席では、茶と呼ぶというような、……つまり、使い分けです。あんまりフェアーではない気もしますが、時々、こういうのって、ありますよね。

「茶坊主」とは、辞書を引くと「権力者におもねる者をののしっていう」言葉だとあり、茶ならまだしも、茶坊主と直に呼ぶには、やっぱり薄い抵抗感もありますよ。そんなこともあって、陰でささやかれるようになってしまい、やがて都合の悪い「坊主」が省かれて、自然に、「茶」に変化していったのでしょうか。

それから、茶が定着しているにもかかわらず、相変わらず一部の人たち、とくにごく少数の女子によっては、根強く「小坊主」が使われ続けてたり。こうして、茶と小坊主が、入り乱れて使用される様子も感じるのですが、その実体や事実は、もう分かりません。

 

ところで、茶でもなく茶坊主でもない、しかし、小坊主でもないほかの呼び名がまだあるんです。それが、「おおぼうず」と「ちゅうぼうず」です。

小坊主の韻を踏むように、おおぼうず、ちゅうぼうず、という呼び方は、スナップが効いていてなかなか面白いです。ただしこの呼称については、本人が認めていたか、どうかは、はっきりとはしませんので、誰かが悪戯に、また意地悪く、そんないい方をしてみた、という可能性も決して排除はできません。でも、いいセンスしてるし、かなり面白いですよね。

81年4月発行のこの18号は、茶の新宿の部屋が発行所になっています。 そのことから、この記事は茶自らによって書かれ、しかも、「おおぼうず」も、茶が自分で、または、そのことを承認か、または承知して書いている、とも思われます

同18号から。「ちゅうぼうず」も、それと、「黄」も、ひょっとしたら茶によって書かれてる? この号では、茶によって書かれた記事がとても多く、それをごまかすために、苦し紛れに「ちゅうぼうず」とか様々なペンネームを、茶が創案したような気もしてきましたが、真相はどうだったんでしょうか。

■また会える日を

そして、こういう様々な呼び名が入り乱れ、野放図に使われることで、当時の仲間たちもやや混乱しはじめ、なにより茶自身が、このままではいよいよ収拾がつかなくなるのでは、と、きっと焦りを感じたのかも。そこでこのあたりで、自分のあだ名の整理をし、呼称の統一を図っておく必要があるのかな、と、どうやら判断したようです。

そこで、いよいよ茶自身から、「名義書き換え届」というものが提案されるのです。

その主旨は、茶坊主というあだ名では、日常生活するうえで、いかにも具合が悪いために、ここらであだ名を改めたい、という訴えです。

けれど、まったく別の呼称に変更したのでは、皆さんに戸惑いもあるだろうから、名残を含ませつつ、「茶」から「芥(あくた)」に変更します、と書かれているのです。これは確信的に、茶自身によって直接、書かれた記事だと思われます。

26号82年5月は北海道で作られました。 いよいよ茶から出された「名義書き換え届」は、投稿という形で書かれ、札幌に届けられて掲載されたようです。 また「夢日記」では、「茶」となっていますが、これはひょっとしたら「芥」と書かれてたのに、チャックか毒が、書き移すときに間違った? のかも。

しかしこの提案は、まったく仲間たちには受け入れられずに、多分、一笑に付されて、雲散霧消してしまったようです。戯れ言として扱われ、ほとんど振り返られることもなかったみたいですね。

なぜ、これが認められなかったかといえば、この提案……「変更届」は、3つのミスを侵しているからです。

まず、「届」といいながら、こうしてほしい、こうします、と、茶自身が畳みかけちゃった点です。焦りがあったんでしょう。お願い、よろしくね、という柔らかな態度があれば、ひょっとしたら少数の人たちは、「芥」を認めていたかも知れないのに。

2番目は、字面が似ているからといって、安易に「芥」と決めてしまったところでしょう。だって、芥(あくた)は、チリ、クズ、そしてゴミの意味なんですから。そんな呼称を、まさかわたしたちは、とても茶に向かっては人道的にも使えませんよ。しかもすでに、川湯の仲間には「ゴミ」というあだ名を持つ人がいて、ダブってるし。

また、ここでの茶の最大の過ちは、自分が茶と呼ばれている現実をまず否定するのではなく、前提として認めちゃってることです。結果として、この提案は、アワのように消えてなくなりました……。

 

それにしても、これほどいろんなあだ名で呼ばれてるってことは、茶に対して、親愛の情を持ってる人たちもたくさんいる、という証なんだと、わたしには思えてなりません。茶は、川湯の皆さんに深く愛されてるんでしょう。

そのうちに、ひょっこりと小坊主がやって来て、私たちの前に現れるかもしれませんよ。その時、なんと呼び掛けたらいいのか、そろそろ準備しておかなくてはならないでしょう。だって、間違っても、「やぁ、久し振りだねえ、アクタ」なんていったら、それは失礼ですからね。(わ)

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