野村川湯YH 解題「月刊川湯」 | 野村川湯YH 野村川湯ユースホステル

解題「月刊川湯」

連載 月刊川湯

第5回
新宿高の胸のうち

 

■高校2年のふたり旅

1979(昭和54)年、夏のある日の朝。

お気軽で、陽気なヘルパーだったトモノとキンタは、いつものように朝寝坊はしたものの、その日も上機嫌でした。記念撮影やら見送りなどを終え、朝の忙しさから解放され、ぽわ~っと、惚(ほう)けたようにタバコを吸ってました、たぶんね。そんな時に、今日はなにして遊ぼう、とか、誰を騙そうか、など悪い企みが次々と浮かんだりするものなのでしょうね。

すると父さんから「おーい、シーツを洗濯屋に持って行くついでに、川湯駅にホステラーを迎えに行ってくれや」とかいわれ、ふたりは揚々とマイクロバスで向かいます。

駅の改札口で、ふたりは旗を振って待っていたかどうかは、もう忘れましたが、札幌方面からやって来た列車が到着し、5名の宿泊者が、パラパラと降りて来ました。

小楠厚子(オグス)と東谷栄子(チャック)は、千歳市からやって来た高校3年生です。眉間にシワを寄せて、ちょっと不機嫌そうなひとり旅の大学生が、ナガサカ(肇)でした。バスに乗り込むと最後部にひとり陣取り、デンと座ります。ナガはすでにユースには何度も訪れていて、勝手知った常連ホステラーでしたが、キンタとはトモノとも初対面でした。今年のヘルパーたちは取分け軽いよなぁ、と、ナガは思っただろうし、ヘラヘラした騒がしいヤツラだ、と不快を感じてずっと無口でした。最悪の出会いですね。

そして、もうひと組の高校生のふたりが、佐藤吉英(新宿高)と大森静夫(そば屋)でした。東京と名古屋にそれぞれ住む、高校2年のいとこ同士のふたり旅です。

ナガサカはバイト先のレジャー牧場へと、ひとりでさっさと向かい、川湯がはじめての高校生4人は、早速、遊びたくて仕方ないヘルパーらによってあちこちを連れ回され、たくさんのウソを吹き込まれて、イジり倒されたのは、いとも容易に想像できます。

名古屋に実在した蕎麦店が「そば屋」の実家で、「新宿高」の実家は蕎麦店ではありません。

 

■うちのクラス

佐藤吉英の通っていた都立新宿高等学校は、名門の伝統校として誉れ高く、都内に600校ほどもある公私立高校のなかでも、いまだに最難関のひとつとして揺るぎありません。卒業生には、国会議員や知事、市長など政治家や官僚、学者・研究者、法曹関係者、大企業のトップなど、社会への貢献と影響も多大です。

そんな高校の、当時の学内の雰囲気はどうだったか。新宿高が自ら「月刊川湯」に書いていてます。

◎3カ月遅れの80年安保によせて

「70年6月22日で、期限が切れた日米安全保障条約は、『改定の意志なし』とする佐藤内閣によって自動継続された。これに対し反安保勢力は、60年安保を上回る人数を動員し、反対集会を行ったが、10年前とは問題の質に根本的な違いがあった。

60年当時のような切羽詰まった必然性のようなものはなかったのである。当時、本校でも安保反対を叫ぶ一部が、授業中止とクラス討論を呼びかけたが、ほとんどの生徒は、その必要なしとして授業を続けたのだった。

こうして意気消沈していた学生たちは、ジレンマに陥りつつも、運動を続けた一部は、やがて内ゲバや過激な暴力闘争へと向かっていった。−−ある意味で、連合赤軍の内部粛清は、60~70年代にかけての学生運動の一つの結論だったのだろう」 新宿高(1980年9月 11号)

◎蘇った自習コール

「俺らのクラスでは、一学期の間中、現代国語と日本史の時間になると、毎時間のように、自習コールがあった。二学期に入って、はじめての日本史の授業での第一声、教師曰く、おっ、今学期は自習コールがないな。そのとたん、どこからともなく「自習、自習……」の声と手拍子。うちのクラスの団結力といったら、この上ない。また今学期も蘇った自習コールでした。 新宿高でした」1980年9月 11号)

 

■迷惑な訪問者たち

前述したように、新宿高が川湯にやって来たのは、高校2年の夏でした。

その年の夏休みはあっという間に終わり、3年に進級しました。進学高でもあり、新宿高自身も進学を希望しており、学校の授業だけでなく、学外でも家庭でも、じわじわと受験対策のための学習量が必要な時期にさしかかってきます。

北海道を旅した体験があったからか、どうかは分かりませんが、新宿高の志望校は、北海道にある国立大学でした。それなりのことをしないと、もちろん合格は望めません。

しかし、……気が散るのです。勉強に集注しようとしてる時にこそ、ジャマ者がやって来たりして、ちっとも身が入りません。

 

「先日、三夜続けて、うちに妙なものが入ってきた。一日目、うちのネコがセミをくわえて入ってきて食べてしまった。二日目、昼間雨が降ったせいか、ひとつがいのカエルが入ってきて大さわぎをした。ここまでは許せる。三日目、これは未だに不思議なんだが、なんとカニが入ってきたのだ。別にうちの近くに川があるわけではなく(もちろん海もない)それがまた、大きく、塩ゆでにして、食べようと思ったくらい」 新宿高(11号 1980年9月)

……当時、渋谷区初台1丁目にあった新宿高の自宅では、そんな奇妙なことが起こっていたようですよ。新宿駅まで歩いても行ける距離にあるほどの都心にいながら、そうした珍客たちが夜な夜なやって来たりして。不思議です。そしてなお最悪なのは、たまに素行の悪いお兄さんたちも、やって来るのです、しかもアポもなしに、突然に。

◎お部屋拝見 新宿高の巻

「実に珍しい新宿高の部屋である。今まで彼の家に関する資料は皆無に等しかったのであるがついに今日探索する事に成功した。彼の部屋は実家でありながら、アパートの一室であり、そば屋のとなりに位置している。

友の、高田氏、私と共に、彼の名を知らず、突然訪れて「正吉君! いますか?」と家の方に聞いたところ、彼の名は吉英であり、それを知るまでに約5分を要した。友人でありながら本人の名を知らぬという我々を家の方は、大変よくもてなしてくださった。

新宿高の部屋へ入ると、別にテツヤの部屋の様に臭さや油っこさもなく、日本的なテーブル兼机がある。壁にある森下愛子や桜たま子のヌード写真のすきまには、遠い世界に、旅の終わり等10数曲の歌詞がはってあり、5万分の1ラウスの地図があり、思わず心ウキウキしてとても勉強などしてられない部屋であった。

6畳くらいの割と広い部屋の机と壁とカーテンに囲まれた50cm平方のじめった一角が彼の落ち着く場所らしくまったくゴキブリか亀の様な性格だ。本日は驚いたことにケンタッキーフライドチキンと30円割引付きコカコーラがでて、すごいごちそうになってしまい感謝珍謝雨あられである。

高田さんは、ケンタッキーフライドチキンを知らなかった事は秘密であるので、この場ではふせておく。

あれだけもてなされると又来たいというより、代わりに住みたいと思うのは私のみならず高田、友の両氏も同様であった。新宿高!! 感謝!!」 以上 はじめ発(1981年6月 20号)

 

■主体性のない部屋

さて、高校を卒業し、浪人中だった新宿高は、時々、健気に、または気分転換に「月刊川湯」に原稿を書いては送っていました。そうやって、川湯の悪い仲間たちとは、緊密ではないにせよ、細々ながらつながってはいました。わたしとしては、そういうことが、いい気晴らしにもなっていた、と思いたいのですが、心境はどうだったのでしょう。

ひょっとすると、突然、訪ねて来られ、ナガにいいように部屋の様子をレポートされたのに、気分を悪くしていたのかも知れませんよねえ。

その腹いせにでしょうか、今度は新宿高が、いとこのそば屋の部屋を訪ねた折の感想を紹介しています。

◎お部屋拝見 そばやの巻

「極平凡ではあるが、異臭(彼の足の臭さはあまりにも有名)と飛行機の爆音(夏のみ)とで、外で世間話をする猫の声の気になる彼の部屋である。

そして本棚には、1度も開いた形跡のない平凡社の世界大百科事典と明らかに学校から盗んできたと思われる黒板消し、クレンザー、トイレの入口にはってある男のマークの付いた板きれがアンバランスのようで意外にマッチしているのが不思議であった。

また鴨居には、ダイエー上飯田店で、1000円で買って来たバックボードがあり誰でもダンクできる高さにもかかわらず、わざわざ助走する彼の後ろ姿には、旅の疲れは感じられなかった。

が、気になったのは、小学校時代から使っている、そこらに赤さびの目立つ学習机の上には、雑誌類が山積みされ、勉強など……という風で、来春、小樽商大をめざす彼は浪人必至である。にもかかわらず小樽の北一で買って来たランプを眺めながら、北海道の土産話をする余裕すらうかがえた。

ようするに、人の影響をすぐに受けやすい彼の性格のあらわれた、実に主体性のない部屋でした」 ……宿 (1981年9月 21号)

 

■無闇に騒がず、落ち着いたヤツ

1982年3月13日付 北海道新聞のスクラップ。

 

「とうとう道民の仲間入り。一見、軟弱そうに見える新宿高……はたして4年間、北海道で生きて行けるかどうか……。

今のところ、自炊しているみたいだけど、私はあれ以上、新宿高がやせ細らない様、毎日、お祈りしています。みんなも彼を激励して下さい。 〒050 室蘭市水元町××−×× ハイツ××107 室工大 日本一」1982年4月 24号)

……と書かれた原稿に署名はありませんが、これは、ひとつ歳上のお姉さん、チャックでしょう。こういう仲間が近くにいるのって、それだけで頼もしくて、嬉しいもんですよねえ。

とはいえ、新宿高の室蘭市での学生時代がどうだったか、どんなふうな暮らしぶりであったのか、などが窺えるような記事はなく、残念ながら詳細は不明です。

時を経て、もうすっかりオヤジになったであろう新宿高とは、ここしばらくの間、直接のコンタクトは誰も取れていませんが、側聞するところによれば、健康で、息災に暮らしてるみたいですよ。そしてどうやら、今では、受験生たちに勉強を教える立場にいるようです。

新宿高自身が、受験生時代に経験した奇妙で、また、迷惑な人たちとのつき合いは、忍耐を養い、修行僧のように心静かに集注する術を体得したはずです。であるとすると、我慢強くて寛容な、優れた指導者になっている、のではないでしょうか。

無闇に騒がずにいつも落ち着いていて、ちょっとシニカルで、なんかのときにチラっと滲み出てしまうインテリジェンスがカッコよかった新宿高の持ち味と資質は、オヤジになった今も、あんまり変わってないような気がします。……でしょ?

今はまだ、確かな予定はなにも決まっていませんが、近く、新宿高に会えるような気がしますし、会えないかもしれません。できれば久し振りにふたりで会って、もし、当時の胸のうちなんかが聞けたらいいのかなあ、と思ったりしてね。

……なに、恥ずかしいから、あまり触れられたくない? そんなこといわないで、わたしと会わなくなってからの、その後のあなたの物語を聞かせてよ、ねえ、いいでしょ?(ら)

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