私の野村川湯
ひげさん(平池直也)
新参者の「ひげさん」です。76年に8月7日から2週間、77年の8月下旬に10日間ほど、連泊しました。
74年夏、75年冬、に続き3回めの北海道で、川湯と出会いました。釘付けになり後半の予定がぶっ飛びました。ですが、77年夏以降、45年間、まったく川湯関係者と交流する機会はありませんでしたので、浦島太郎です。
今年(22年)8月13日に、ホームページの存在を知ってからの2週間、興奮冷めやりません。明確に話した記憶があるのは、のうま君、ダックス、マヤちゃん、です。けど、元々話好きなので、そこらじゅうの人と話してるはずです。
▽怒濤の10日間(2022年8月13日~22日)
2022年8月13日。川湯ホームページの存在を知る。これを見る前の、俺の川湯の記憶を話します。
1977年夏以降、45年間、川湯の知り合いと交流はない。
学生時代に作ったアルバムに、数枚の写真が貼ってあることは覚えていたが、すぐ手元にあるわけじゃない。頭にある記憶は、父さんとふたりのヘルパー、のうまくえん、便所下駄ぐらい。ヘルパーとのうまくえんの顔は、ぼんやり覚えていた。
ホームページを見た。よくある年代ごとに紹介するような、ありきたりのものじゃなかった。俺が知ってる、あの川湯だった。びっくりした、驚いた。YouTube画像もあるじゃないか。4年前の出版記念バーティの画像、長坂の誕生日会画像などに囚われる。
あのヘルパーが、フッコと真くんだってことがわかった、名前は覚えてなかった。何回見てもふたり以外はわからない。
えっ、卒業アルバムがあるの? もしかしたら俺、写ってるかも? じゃあ、買わなくちゃ。どうやって申し込むんだろう? そもそも俺、76年と77年、何泊したんだろう? 77年の夏の終わりに、フッコの手伝いで、1週間ほどヘルパーやったことは覚えていた。17日にアルバム引っ張り出した。18日に76年に使った手帳が見つかった。で、わかった、俺、76年は、8月7日から少なくとも14連泊してた。
▽マヤちゃんとその友人
1974年夏、75年冬、に続く3回目の北海道が76年の夏、ここで野村川湯と出会う。この頃俺は「面白いユース」「有名なユース」を探し歩いていた。桃岩荘は77年になってしまったが、礼文・岩尾別・えりも・浜中・積丹かもいYH……噂を聞いたところは回っていた。
そして尾岱沼YHのときだ。珍しくひとり旅の女性がいた。当時、Gパンはいて、ずっく靴で、リュック背負って、首からタオルかけて、いざとなったらヒッチハイクだってやりますって「女ひとり旅・猛者」も、いなかったわけではない。けど彼女はそういうタイプではなかった。普通に女子大生っぽい。聞けば、ふたりで北海道を回ってたが、同行者が途中のユースが気に入って、長期滞在しちゃって、そこから私はひとり旅だって。こりゃ聞き捨てならん、はたしてそこは、野村川湯YHだという。
それまでまったく噂を聞いたことがなかった。けど「仲間と別れてでも、女性がひとりで滞在したいYH」ってのは、行ってみる価値がある。しかも道東で近いし。……だから、俺を野村川湯へ導いてくれたのは、マヤちゃんとその友人、ということなんだ。名前は覚えてないが、P117(「写真文集」のページ 以下同)前列右端がその女性。P102にも登場してる。……この写真、トモノやその仲間も写ってるね。
▽けいちゃんありがとう、便所下駄の写真
俺、同じ日に宿泊してるはずだけど、けいちゃんと言葉を交わしたかどうか覚えてない。けいちゃんも同じだと思う。じゃあ、何でかっていうと、P146の上の写真。ずっと「便所下駄」の手掛かりを探してたから、やっと辿り着けてとっても嬉しかった、そのお礼。しかも横にトモノがいるんだよね、ビックリ。……そういえば便所下駄はひとり旅じゃなかった、仲間と来てたな。
で、なんで便所下駄なのかっていうと、川湯のホステラーで当初記憶が残っていたのが「のうまくえん」と「便所下駄」だったから。いっとくけど、誰ともまったく連絡を取ってないんだよ。その状況でも、46年間記憶し続けていたんだよ、結構凄いよね。なぜなら、彼の話が印象的だったから「俺は野村川湯が大好きだ。2年後にはヘルパーになって、必ず帰ってくる、ここへ」って。さぁて、彼は宣言通り、無事に帰って来たんだろうか、すんげぇ活躍してたりして、だったらいいんだけど、誰か教えて。いやいやトモノに聞けば全部わかるよね。
けいちゃん、大阪なんだね。もしかしたら阪急梅田駅ガード下のドトール珈琲で、隣り合わせたかも。いやいや、ミナミのナンバグランド花月前のジュンク堂書店料理書コーナーかな。
▽のうま君、元気?
P107、真くんが、のうま君が翌々日に出戻ってきたときのことを、語っている。俺その現場、ライブで一部始終を見聞きしてるんだよね。ひゃぁー戻ってきたんだって、驚き、マヤちゃんと一緒だなって思った。これがのうま君の最初の記憶。76年は、のうまくえん、だった。77年は、下の名前の後ろに、君か、ちゃんをつけてたって記憶するんだよね。とおるちゃんとか、ひろし君とか……違ってるかな? でももう「のうま君」で統一する。多数のホステラーがいる中でも、のうま君は目立っていた。角ばった堀の深い、ヨーロッパの俳優のような面立ちだ。マルチェロ・マストラヤン二を連想したね。
翌77年も数日一緒だった。俺にとって、ホステラーの中で最も多くの日数を共有した人だと思う。卒アルによれば77年は下関と一緒にヘルパーを仕切ってたんだね。さもあらん、76年の時、川湯に情熱をもっていることを、俺、見知っていたからね。しかもホステラーと結婚したんだって、スッゲェな。アッこれは下関も同じなんだよね。
のうま君は雄弁だった。初め、川湯ネームが気に入ってなかったように見えた。けど無理に変更しようとしなかったような気がする。それは彼の大人の判断だったのでは? たぶん俺と同年代。卒アルの出番が少なかった、元気かな?
▽フッコと真くんのこと
フッコは積丹かもいYHを知っていた。1974年、75年と、かもいを拠点にしていた俺には、それが嬉しくて、親近感を持った。真くんは見た目や服装がちょっと悪っぽくって、直ちゃんが避けてたってのはわかる気がする。けど、フッコが気づかない細かいところに気を配る姿勢は、風貌と全然違ってた。
フッコは76年夏、満を持して川湯ヘルパーに臨んでいたことを、今回の卒業アルで知った。4ばかユースを参考に、いろんなYHを調べていた。真くんが父親の反対を押切って学校を辞める件は、文字面以上に厳しさを見る。ふたりで父さんに「キチガイユースにしていいですか」と訴えたくだり。そして当初「1年だけのユース」と聞き、臨む覚悟ができたこと。……そうだったのか、だからあんな爆発的なエネルギー注入があったんだ、と納得がいった。
高校時代からの付き合いで信頼できるパートナー同士、阿吽の呼吸でミーティングを回し、アドリブ全開で躍動し続けた。ふたりの姿は圧巻だった。ヘルパーとはかくあるべき、なんてのはまったくあずかり知らず、1年限りのユースで、俺達ふたりの川湯劇場を創るんだ、という確固たる信念があったのかもしれない。俺(たち)はその力に、道内に浸透し始めた風に、呼び寄せられた。ラッキーだった。ありがとう、フッコと真くん。
▽トモノを思う
便所下駄にしても、トモノにしても、16、7歳で、あの夏の川湯を体験してしまったのは、影響が大きいと思う。あれをもろに浴びてしまったことが、ここまで46年に渡る、トモノの川湯への関わりスタイルの源泉になったのかもしれない。このあたりは、P154の(む)氏の解説に譲る。だが、トモノがいなければ、この卒業アルバムは出来なかったんじゃないかな、って勝手に思ってる。
P153の「ブラトモノ」に住所探しの記載がある。私事だけど「あれから45年」という冊子を3年前作成した。45年間連絡のない古い仲間40人と、連絡のある10人へ寄稿を募った。住所探しに苦労した、だからここはトモノと気持ちを共有する。俺の場合、90%近くの人には案内が届いたと思われるが、寄稿してくれたのは14名だった。トモノの壮大な試みに費やす労力は、その50倍はあっただろう。
14連泊した俺のところにも「アルバム作成・寄稿依頼」のハガキを送ってもらったのだろうと思う。当時、世田谷で下宿していた。そこから目黒の会社の寮、結婚して横浜。転勤で地元大阪へ……まだまだ引越が続く。郵便物が転送出来るわけがない。寄稿できず残念だが、こうして完成品を手に入れる幸運があった。トモノ、凄いもの作り上げたね、ありがとう、心から感謝します。
▽蘇る川湯の記憶
8月13日から毎日ホームページを見てる。つったって、まだ勤めてるから、長くても1時間半。帰宅するなりYouTube画像を見続ける俺を、不審そうな目で横から妻が見つめる。1980年秋、新婚旅行で立ち寄ったユースだよ、って説明する時間ももったいない。何よりどうやったってこの熱量を伝えることはできないし。
で、近年の川湯サークルは、トモノ氏、らんさあ氏、テツヤ氏、長坂氏、キンタ氏、下関氏、ホーセー氏らが中心になって運営していることがわかってきた。けど、誰も知らない。つーか昔の写真も一緒に画像にアップしてよぉ~、って感じ。
だが、今は、違う。だいぶ思い出してきた。トモノとは会ってる、たぶん便所下駄と一緒のグループ。らんさあは4日間同宿してる。下関は77年にヘルパーやったんだねぇ~、体格が立派になってて、なかなかわからなかった。結構長く一緒に宿泊してる。これはダックスも一緒。ダックス、卒アル印刷ありがとう、だいぶ持ち出したんじゃない? マヤちゃんとは、俺が川湯に来た件を話したし、並んでダンスしてる。直ちゃんは、スリムな素敵な大人になったねぇ。友ちゃん、広場での鉄板焼き、美味しかったよ。他にもネームがわからないだけで、知ってる男女が何人もいる。
▽誰か、俺の名前、覚えてない?
俺、川湯で何と呼ばれていたか、思い出せない。いくら絞っても出てこない。もしかしたら、以前長期滞在したYHで「せんぱい」って呼ばれていたから、それかな……う~ん違う気がするなぁ~。なんか、どこかで「ひげさん」と呼ばれてた気もするから、こっちかもしれない……けど確信が持てない。誰か、教えてくれぇ~、俺の川湯ネームを。
ホームページの画像を見てると、どんどんいろんなことを思い出す。一昨日は、手元の写真と、出版記念パーティ時のビデオ(父さん・母さん向け?)の、真くんと女性の掛合いを見ていて、アッそうだ、これ直ちゃんだって。
昨日は、フッコの「風呂焚き爺さん」を聴きながら卒アルをみていたら、P108の女ヘルパーが気になり、慌ててP5を見る。トタンの波板で、下関やのうま君とジンギスカンやった時のエプロン女性だった。そうか友ちゃん、ヘルパーだったんだ。またP105のスタンプ帳見てたら、下関の出戻りがわかった。77年はのうま君との出戻りコンビ・ヘルパーだったんだな、ってな具合。
今日は、4日間一緒に泊ってる、らんさあを探してる。もしかしてP32の上、2列目右からふたり目がそうかな? のうま君、下関の前に腕を伸ばしてる人。
▽埋められない45年、けど少しでも引き寄せたい
2022年8月18日、卒アルが届く。この同じ日「旅のメモ帳」を物置で発見、45年ぶりに開く。記述は、76年7月27日、上野発青森行き夜行急行「八甲田」車内から始まる。が、8月8日の「今日、川湯に連泊している」を最後に、記述が途切れる。そして2週間後の20日の夜に「風呂焚き爺さん」の歌詞だけがある。驚いた、こんなに連泊してたんだ。ってことは、らんさあが、P110で、到着初日(12日)に、連泊者から「遊ぼ」と声かけられたと記しているが、のうま君、ダックスと俺もそこにいたはず、たぶん下関も。下関は長身でスタイルが良かった、けどあんまりしゃべらなかったなぁ~。ダックスは明るく愉快だった。おもろい写真もある、多分つるんで遊んでる。
77年は、父さんに裏摩周へ連れて行ってもらった。京都のバスガイド2名が、服のまま泳いでたなぁ~、そのあと屈斜路湖でも。その後のうま君が出発し、父さんから手伝ってと声がかり、フッコの助手的な位置でヘルパーを1週間~10日ほどやった、A館で寝泊まりして。
45年間を、別に封印していたわけじゃない、川湯を。「楽しかった」とずっと上書きしてた。……誰か、俺のこと、覚えてないかな?■
コメント
ヒゲさん、大丈夫だよちゃんと覚えてるよ!すっごい久しぶり。
阿寒湖へ一緒に行ったね。楽しかった。
「野村川湯のことはトモノに聞け」これ合言葉だから。
ちなみに写真のフッコの隣の長身は「直坊(ナオぼぅ)」です。