ちょうど野村川湯ユースが、体制を変えつつあった1979年から4年ほどの間、北海道、東京、名古屋、大阪、福岡を拠点にして、仲間をつなぐために、ため息のように小さな冊子「月刊川湯」が作られていました。ここでは、その「月刊川湯」を拾い読みして、採録し、当時の青さ、生真面目さと、危うさのようなものに、触れてみたいと思います。
第7回
「毒リンゴ」が
残した言霊〈上〉
もう今では、会って、話の聞けなくなってしまった仲間たちも、「月刊川湯」のなかでは、静かに息をしていて、読み返すと、あの人の声が鮮やかに甦ることがあります。
誌面に書き残された文を読んで、当時の生命感を感じながらも、青年期特有の粗暴さや揺らぎがちらちらと記されていて、なかなかに興味深いのです。
さて、野村川湯の歴史に、クッキリとした爪痕を残しつつ夭逝した仲間のひとりに、毒、また、毒リンゴという愛称で呼ばれていた札幌市在住の畑本(旧姓・堀越)貴子さんがいました。
どんな人だったか、川湯とどう関わったのかは、「野村川湯ユース・ホステル写真文集」(2018年)に、(工藤)みゆきちゃんと、キンタ(木下透)が簡潔に書いていて、人柄など伝わってきますので、まずはそちらを参照してみて下さい。
……それで毒リンゴの、おおよその輪郭をつかんだうえで、やや長くなりますが、ここでホーセー(吉川誠)が書き残した記事を読んでみたいと思います。
■スキャンダルだあ!
「今日のトランプ、調子良かった」と、スキップをしながら、ブルーのパーカーをなびかせて、「立川」の街を走り回るキンタのエリもとにチラッと映ったセーターが、キンタを包んでいるのである。キンタの家に泊まった朝、キンタは窓を開け、朝の空気を満面に感じて、今日は寒いから、といって、首を通したセーターの秘密を知る人は、多くはないであろう。
その時、私は無心に、“11PM”を見ていたのであった。“ルンルン”とベルが鳴る。受話器を取るとトモノが興奮した声で、“大事件!! 大事件!!”と叫んだ。トモノの話を聞いた時、私は胸の高鳴るのを抑えることができず、“スキャンダルだ、スキャンティーだ”と叫んでいた、久しぶりの興奮である。私はエクスタシーへの階段を昇りはじめていた。
トモノの電話の骨子は、トモノが暇をつぶすため、キンタ宅を訪れた。しかし応対に出たのはキンタではなく、キンタそっくりのその母であった。そして彼女の口から出た言葉こそがまさに、スキャンダルなのである。
“今日8時半に、札幌の堀越さん(毒リンゴ)が羽田に着くといって、迎えに行きました”ということである。これを聴いたトモノは、これから起こるであろう様々な事件が、頭のなかを駆け巡ったのであった。そしてその興奮を分割するかのように私に電話をしたのであった。
キンタ、毒リンゴは、去年(HP編集部 注:1979年)の夏、8月22日に一緒にユースを出て、26日にはかもいYHでみんなに会っている。その間の2人の行動は、全く明らかにされていない。一部では、釧路のホテルに入るのを見たとか、夜行列車で会ったとか、様々な情報はあるのだが、どれも確実性の高いものではない。
しかし、その頃芽生えた恋が今、人目もはばからず満開になっているのである。見ている私たちが、恥ずかしい。しかし、人の恋路、指をくわえて見ているだけである。
ひとつつけ加えることがあった。毒リンゴが上京した1月25日はキンタの誕生日であった。そしてその翌日、キンタはあったかそうな手製のセーターに包まれていた……。
昨日、立川の駅でキンタに会った時、23歳くらいのOLという感じの女性が、キンタに“とおるさん、これでお茶でも飲んで”と、3千円を渡した。
私はその場に居合わせ、口封じという意味でコーヒーの一杯もおごってくれるかと思ったが、何もおごってくれなかったので、追記という形でここに記しておく。
「キンタ君、君は今、青春だね。無鉄砲もいいが、後で後悔だけはするなよ」 ホーセー(「スキャンダル・スキャンティ 第4回 キンタの巻」 1980年2月 5号)
……誰からも「キンタはモテ男」といわれ、女のわたしからしてもそうだとは思えますが、なのですが、ただのヒモ男のようでもあって、ちょっと感じ悪いヤツですよね。
キンタも、写真文集のなかでは、懺悔みたいな、自戒を込めて、毒リンゴへの若い頃の気持ちとか直裁に書かれていて、悪い気はしなかったのになぁ、ちょっと裏切られた感じ。
立川の駅で、別口のオンナ(これって、Iさん……ですかぁ?)から、さらっとお小遣いをもらってたりしていて。どうなんでしょうねえ、こういう男って。
当時、千歳−羽田の航空券は、感覚からして、そう安くもありませんし。むしろ高かった。まだ格安航空会社もない時代に、毒リンゴは、効率よくお金を稼ぐ必要もあったのかな、とも思われます。それとも……。
それからわずか5ケ月後には、毒自身が以下のようなことを書いて、近況と心境を吐露しています。背景となった真実はふんわりと隠されていますが、どうやら身辺に大きな変化があったように読めます。
■ホントの動機は……?
私が今生活を送っている所は、札幌から少し離れた雷電(らいでん)温泉(HP編集部 注:岩内郡岩内町 積丹半島の南側の付け根)。どうしてこんな田舎に旅館のメイドをやりに両親、友達さえとも別れて来る気になったんだろう……。人間って何のために働くのーー? そんなことを思いつつ、自分のために両親のためにここまで来た。自分のやりたい仕事をしている人は最高に幸福者だね。でも、私も現在、幸福だよ。売られたわけじゃないし、泣き泣ききたわけじゃなし。
贅沢ひとつ出来なくとも生きてゆくために働くことの出来る人間、素晴らしいと思う。私の回りはそんな人だらけ……。食べてゆくために働き、働くために食べる。当然のことが、今さら、なんだか重く感じる。
“たかが女中”と言葉をはく人がいるだろう。でも、私はそんなみみっちい言葉は気にしない。布団も敷いてます。掃除もします。食事も運びます。お茶もいれます。トイレ掃除もします。しかし、すべてを経験することくらい私を大きくさせることはないと思ってるから。今私は、ひとりの人間として大きくなってゆきたい−−。
海がすぐ前のこの雷電……部屋にもこんなでっかい夕日が真正面へ落ちてゆく。
私の回りをつつんでいる澄んだ海、青い空、緑の燃える山々……。
私は何かを得て、この雷電から帰りたい……。(1980年7月 9号)
……と、はっきりとした事実は伏せながらも、わたしには素直に、正直な心根を毒自身は、書いているように思えましたね。
とにかく、なにかを失ったので、この地で再生するキッカケを得たい、ということなんでしょうか。それで駆り立てられるように、地元・札幌を離れ、心寂しくもある温泉旅館に住み込みで働くのを決心したホントの動機は、なんだったんでしょうか。毒リンゴの身辺には、なにが起こったのでしょう。
続けて、こんなふうなことも書いています。
◎雷電での幸福 毒
札幌に帰り、一番気になる人口と騒音が、この雷電にはなく、海と山と空だけが私を包む……。
ささいな一瞬の喜びに、私の幸福は、ここにあると思った時もあるけれど、今私は、幸福とはなんてつかみどころのない、かすかな物なのかを改めて知る−−。
少ない人の中で、多くの意見、励ましを受けて、どうにか10月末までやってゆけそうな自分が、もしかしたら、幸福な時期にいるのかもしれないとも思う。
意見してくれる知人がいるというのは、本当にそれだけで素晴らしいものです。
この、どこまでも青い海の雷電で哀しみを吹き飛ばすほどの、強い自らの力で、手に入れる幸福を少し少し、わかりかけてきた私です。(1980年9月 11号)
それでもまだ、温泉旅館で働こうとした動機は不明ですが、自分自身を見つめ直して平穏に、集中してお金を稼ごうとしたのは、ひとつの目的だったでしょう。それと、抱えたままの哀しみを、吹っ切りたかったのも間違いなさそうです。
なのにその雷電の旅館でも、心穏やかではない、生々しい出来事があり、ますます気持ちを複雑化させてしまったようなのですが、そこんところの委細はここでは割愛します。同じ女性として、これはね、いえないんですよ。
感受性が豊か、というよりももっと過敏で繊細、かと思えば、相手に対して直情的な表現や行動を選択する不敵な女・毒リンゴは、訪れた先々で、実にいろんな出会いと別れを繰り返してきました。
ともかく、雷電での短期集中のバイトを予定よりやや早めに切り上げ、毒リンゴは人として、ひと廻り成長し、でも、人生の先行きや意味はぼやけたまま、札幌の実家に帰ってきたのです、その時期のわたしたちと同じように、迷いを残したままに。■〈続く〉(ら)
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