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野村川湯「文庫」

野村川湯「文庫」

ちょっとだけ、堅い前置きをします。

我が国の現行法のひとつに、学校図書館法という法律があります。なんとその第3条には、「学校には、学校図書館を設けなければならない」とされ、設置義務があるといいます。また同法第4条の3には、「読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を行うこと」とも書かれています。……しまった! 野村川湯小学校は、これまでなにもしてこなかったじゃないか。

……そこで、弟子屈町の教育委員会も関与しない勝手に作った小学校ですが、図書館よりはうんと小振りの、ささやかな「文庫」を、遅ればせながら本HP上に設置することにしました。ただしここでは、当面の間、北海道に関連した書籍・雑誌・新聞・DVDなどしか扱いませんから、念のため。

 

ダサい日常のなかの鋭さ
■「世界音痴」

■穂村 弘 著
■小学館文庫(初版/2009年)
穂村弘(1962−)Homura Hiroshi
北海道・札幌に生まれる。1981年に北海道大学に入学し、この頃、短歌に興味を持つ。同大を退学し、87年上智大学を卒業し、就職。86年、角川短歌賞次席、90年に第1歌集「シンジケート」を刊行。2008年「短歌の友人」(評論集)で伊藤整文学賞評論部門受賞、13年に絵本「あかにんじゃ」で、ようちえん絵本大賞特別賞。17年にエッセイ集「鳥肌が」で講談社エッセイ賞。18年、第4歌集「水中翼船炎上中」にて若山牧水賞を受賞。

 

▼「美」→虫

象形文字……というと、エジプトのヒエログリフとか、古代史上ばかりでなくて、現代、普通に使われている日本語の漢字のなかにも、たくさん含まれています。典型的なのでいうと、日・月、山や川、木とか虫、鳥、弓矢や門戸など。

では、「美」という文字は、どうでしょうか。古代中国で、羊がもとになって作られ、さらに大という人型の象形が組み合わされて発展し、生まれた文字とか、いわれてるようです。そして、その「美」の文字が、なんと虫に見えるという人がいるのです。

「美」が虫にみえるのことをユミちゃんとミナコの前でいってはだめね  穂村 弘

穂村弘は、とくに口語短歌といわれる現代短歌のジャンルで、実力と人気と、それに私の個人の意見としては、人柄のよさを兼ね備えた歌人にして作家です。同じ歳で、同フィールドで活躍し、「サラダ記念日」(1987年)でベストセラー歌人となった俵万智が、角川短歌賞を受賞(86年)したときの、次席がこの穂村弘でした。

ちょっと横路に逸れると、ヤマハのライト・ミュージック・コンテスト(第3回 1969)で、小田和正が「ジ・オフ・コース」として東北地区を勝ち抜いて進み、しかし全国大会では「赤い鳥」が優勝し、オフコースは2位だった、のと似てるかなぁ。もし、山本潤子がいなければオレたちが優勝できたかも、と小田和正がいったとか。だから、高いレベルでの勝負事は、なんにしても面白い。

ここでちょっと試しに、AIに、歌人としての穂村弘の代表作を尋ねてみました。すると……

ゆめのなかの母は若くてわたしは炬燵のなかの火星探検

海に投げられた指輪を呑み込んだイソギンチャクが愛を覚える

……などを挙げてきました。まあ、AIの選択も悪くはないか。ちゃんとこの作者らしい、という感じもあるし、特徴をつかんでるような気がします。でも私としては、代表的な、または、いかにもこの人らしいという意味でいえば……

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

とか、かなあ。好みはあるとしてもね。「ゆひら」は、普通にいうと「雪だ」です。ここが可愛いいと感じるか、そうでなく思えちゃうかの分岐点でしょうね。

 

 

▼不器用な生き方

さて、話を本筋に戻すと、短歌のほかに、エッセイや童話や評論集なども書き、レギュラーのラジオ番組を持つこの人の活動範囲は広いのですが、やはり基本的には歌人としての地歩があり、短歌創作がベースにある、といっていいのだと思います。

本書は、歌集でなくエッセイ集であり、でも随所には自作の短歌も散りばめられていて、その一端を知りつつ、鑑賞することもできますし。長いつき合いのある親しい友と、ゆったりと落ち着ける店で、この前、こんなドジをしちゃってさぁ、へぇ、そりゃあ、笑えるよ、バカだよなぁ、オマエ、なんて雑談でもしてるような、そんな柔らかさのある随筆集ですね。だから気軽に読めて、ちっとも肩は凝りません。

簡単にいうと、あまり器用でなく、ダサい、つまり「音痴」に生きる筆者の日常が、やや自虐的に、ユーモアたっぷりに描かれている、のですが、でも、私たちはそれにすっかりと騙されてしまってはいけません。オレはドン臭いんだよなぁ、とか思わせながら、実は、温かく人間的で、寛容な精神が、隠れるように横たわっていることも見逃せないのです。世知辛く、または、小賢しくコスパやタイパばかりを求める現代の人々とは、まるで交わらない痛快さがあったりもします。だって、音痴であるだけに、世間の主旋律とは今ひとつズレていて、でもそれが鋭い針にもなっていてとても面白いのです。

別に、不器用な生き方だっていいでしょ、ムダのなにが悪いの、失敗なんて誰でもするんだよ、とか、遠回りしたっていいんだし、など、そんな乱暴で、直截的な言葉で著者は決して語ってはいませんがね、そういうふうなことが全体に書かれています。

あの時のひと言が余分だったかな、そこでなぜ、肝心な言葉が出なかったんだろう、とか、正直な後悔やまっすぐな反省など、そういう誰にでも思い当たりそうな経験が、この本のあちこちに、確かに書かれている、と、感じます。

ほっと救われるような、柔らかな毛布にくるまって時間を気にしないで昼寝するみたいな、そんな読後感が得られる、心地のよい一冊です。(む)

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