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近況/遠況

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惜別・難民

 

ご報告
中川明美

金城新成(難民)の、内縁の妻の中川明美です。

今年1月23日、阪和記念病院にて検査の結果、肺癌が見つかりました。27日近畿中央呼吸器センターに転院。放射線治療などをしましたが、すでに多臓器にも転移していました。2月19日の朝、7時31分、静かに永眠致しました。

前日は、私と孫が泊まり、最期の時をともに過ごせました。

ひと月も経たない間の出来事で、今も夢を見ているようです。

本人より、昔の楽しい思い出=北海道への旅、を聞いておりました。再婚同士で、籍は入れていませんでしたが、2006(平成18)年より一緒に暮らしはじめ、楽しい日々を一緒に過ごさせてもらいました。ご出版された本(野村川湯ユース・ホステル写真文集)も、とても貴重な思い出となって残り、今後も大切にさせて頂きます。

故人になり代わりまして、生前のお付き合いに感謝致します。

ありがとうございました。■

 

難民は帰らず
トモノ(友野 正)

難民(金城新成)は1978年から、毎年、川湯に来てくれた。

79年には、同郷の沖縄出身の4人の男たちが連れ添って、キャンプをしながら大阪から車でやってきた。じっくり話を聞いてみると、長く川湯に連泊するために、みんな各々が会社を辞めて来ていた。辞めなければ、長期の休暇が取れなかったからだという。

その4人はそれぞれ、難民(金城新成、アジアの難民孤児風)、カンボ(山口重勝、外見がカンボジア人)、社長(屋宜盛春、沖縄の電気店の店主)、田吾作(神谷佳弘、田舎のおじさん風)と呼ばれてた。彼らはいつも裸の半身でウロつき、頭にはタオルを巻いて、サンダル履きだった。彼らが育ったのは、もちろん復帰前の沖縄だった。

左から2人目が難民。和琴半島の露天風呂にて。

難民は、小学生の頃、立ったままで大型ダンプを運転し、サトウキビの運搬を手伝っていたというし、ハブやヤシガニの採り方やら、素手で魚を採って喰ったりもしていて、およそ想像を超えたことをして暮らしてきた野生児だ。

次の年も、また会社を辞めて、難民たちは川湯にやって来た。ミーティングではみんなに溶け込んで、時には、ポリネシアン・ショーさながらに、夜空に向かって口から焔を吹き上げて喝采を浴びていた。そうして夜毎、盛り上げ、支えてくれて大助かりだった。

七夕祭りを終えて。最前列中央が、難民。

イン東京や大阪で時々、会い、最近では共通の友達を通じて、偶然にも長野県・大鹿村で行き会ったりもした。

4年前、難民(……たぶんパチンコ屋にいた)と電話で話してる時に、また川湯に行きたいよな、と互いに盛り上がり、ならばと、2023年7月のファイナル・ミーティングを開催するに至った。いよいよ企画や日程が具体的になり、その連絡メールを入れてみると、すぐに本人から折り返しの電話があった。

「……ごめん、今、病院にいて心筋梗塞で入院中。言い出しっぺで悪いんだけど、とても行けそうもないわ」と言葉少なに、話していた。

次のイン京都では、ひと目会うことができるだろうか、と楽しみにもしていたが、それももう、かなわなくなってしまった。

素直で、まっすぐに生きていて、なにより情熱のある、いいヤツだった。

もう一度だけ、会ってみたかった。できることならば、会って、もう一回切りでいいから、難民のワイルドな人生や、とんでもなくタフで、風変わりな話を聞きたかったのに。

さようなら、難民。■

コメント

  1. ひじかた より:

    難民!バイバイ。楽しい時をありがとう。
    仲間が先に鬼籍に入ってしまうのは寂しいよ。
    自分は北海道に居付いちまって、なぜかキャンプ場をやってるんだよ。
    また会いたかったね~。
    今日はこれから泡盛を飲むよ。
    その内自分がそっちに行ったら積もる話でもしようや。
    合掌。
    明美さん!あなたも(迷惑じゃなきゃだけど…)川湯の仲間だよ。

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